大学卒という学歴

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2014年5月12日 @ 19:02

 

日本人の学力低下は広がっているという指摘が

あるのだが、最近は逆に「学力は低下していない」

という意見も出てきている。

文部科学省は基礎学力の国際比較でも日本の子供の学力は

依然として高水準であり、学力低下は進行していないと

見解が述べられている。

また、ゆとり教育を推進して学力低下の犯人にされている

人たちも必死になって日本人の学力低下はないと強弁している。

しかし、文部科学省の言葉とは裏腹に、日本人が劣化し、学力も

低下しているというのは、様々な方面から指摘されている。

京都大学経済研究所の西村和雄特任教授は、日本人の

子供たちの学力低下は2006年から急激に進んだとして、

その理由を以下のように述べている。

「2002年度から実施された学習指導要領に沿って、

ゆとり教育を受けた世代が大学に進学し始めたため」

 

学力低下は2006年から急激に進んだ理由

学生の学力低下を最も痛感しているのが現場の教師である。

日本人の学生の学力低下はゆとり教育もあるかもしれないが

、基本的にはそれだけではなく、いくつもの理由が

重層的に重なっている。

ゆとり教育以外の理由として、『学力低下スパイラル』の

著者である多田野清志氏はこのように述べている。

「高校の普通科は、当然のことながら進学することを前提と

して教育課程が作られている。

その進学とは『大学』のことである。この大学受験が難関で

あるうちは、まだよかった。それが、いつの間にか

勉強しなくても大学に合格できるようになった」

大学は、少子化問題で経営が成り立たないところにまで

追い込まれている。学生数が定員に足りていない大学が

3割以上もあるという。

そのために、どんな馬鹿な高校生であっても「お客様」として

入学させ、4年間在籍させてとにかく金を毟り取る

という方向転換を行った。

割り算もかけ算もできなくても、漢字が書けなくても、古典が

読めなくても、太陽が西からのぼって東に沈むと

思い込んでいる学生がいても、みんな大学生にしてしまう。

試験をさせればこういった生徒は落ちてしまうので、大学側が

考え出したのは、無試験・面接程度で合否を判定する方法である。

AO入試や推薦入学がそれに当たる。

これによって、大学は勉強しなくても入れる娯楽場と化した。

勉強しなくても大学に入れるようになったのなら、高校生も

わざわざ勉強をしない。勉強する必要性がなくなったのに、勉強しても意味がないと誰もが考える。

社会が変わり、大学のあり方が問題視されてつつある。

 

計7年間も遊んで世の中に出て行くことになる

ゆとり教育で勉強量が減った上に、大学の生き残り政策で

大学全入時代になり、あえて勉強する意味もなくなった。

子供たちの学力低下を招く必然がここにある。

ひとまず大学生になったのだから、大学側も学生を厳しく

教育し直せばいいのだが、事態はまったく逆で、

大学生は4年間遊びほうけて大学を卒業していく。

日本の大学は、遊びほうけていても卒業できる

世界でも稀に見る異常な組織である。

結局、高校の3年間を遊び、大学の4年間を遊ぶのだから、

学生によっては計7年間も遊んで世の中に出て行くことになる。

7年間も遊び回った大学生がまともな一般常識を

持っているはずもなく、こういった学生が社会に出ると

1週間も会社勤めができずに脱落していくことになる。

全員がそうだと言っているのではなく、教育現場がそのような

システムになっていったことにより、そのような劣化させられて

しまった子供たちも大量に出てきているということだ。

当然、こういった学生を採用する企業も、どんどん劣化した社員が

入り込むようになって苦慮することになる。

企業にとって深刻なのは、大学卒という学力で、学生の質が

見極めることができなくなりつつあることだ。大学卒であれば、

それなりの学力があるという見込みが成り立たない。

大学卒でも、計算できず、字も読めず、一般常識すらも

備わっていない人間が量産されている。大学卒が

目安にならなくなってしまったのである。

その結果、どうなったのか。

グローバル化による競争の激甚化も相まって、企業は学生の

正社員雇用を徐々にやめていったのである。

 

結局、最後の最後に何が残されるのか

能力に問題のある劣化した学生がそのまま終身雇用で入って来たら、

おいそれとクビにはできない。

今までのように企業が育てる余裕もなくなった。

だから、どこの企業でも、そういった問題のある人間が入って来ても、

いつでもクビを切れる非正規労働を増やすという動きになっていったのだ。

こういった状況はこれからも続く。さらにはグローバル化による

企業間における競争の激甚化も止まることはない。

したがって、「大学を卒業し、どこかの企業に入り、

終身雇用で一生安泰」という人生設計はもう成り立たない。

大学卒という肩書きが溢れ過ぎて陳腐化した。大学卒が優秀さを

表す指標でもなくなった。大学卒という学歴は、100円ショップ

並みの日用品と化して、

誰もそんなものをありがたがらなくなってしまった。

何でもそうだが、大衆化・均質化して、希少価値を失ったものは

、価値が下落して「どれでも一緒」になってしまう。

一部のブランド大学の希少価値は残されるが、その他は

「十把一絡げ」の叩き売り商品と同じで、何の意味もない。

結局、最後の最後に何が残されるのかというと、個人が苦労して

身につけた「独自」の資格、能力、技能、技術、知識

といったものである。

これからの時代は、必死になって、他人と区別化できる

「何らかの特殊なもの」を身につけなければならないのである。

それも時代の変化を見ながら、一生役に立つものが必要だ。

学歴も会社の肩書きも、役にも立たない。

正真正銘の個人能力での生存競争になっていく。

生存競争が、企業の単位から個人の単位に降りていくのである。

 

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